ジャーナリスト 堤未果
ISILの人質となった湯川春菜・後藤健二両氏の痛ましい殺害事件が、日本中に衝撃と激しい怒り、深い悲しみをもたらしている。オバマ大統領を筆頭に、西欧諸国はテロリストに屈しない旨を次々に宣言、同じく人質だった自国パイロットが殺害された報復として、ヨルダンはシリア爆撃を開始した。「ISILを一掃する」というその言葉に賛同する多くの声をみて、14年前のニューヨークで感じた、強い懸念がよみがえる。一体、終わりはくるのだろうか?そしてその間私たちは、どれだけの犠牲を払うのだろう?
911同時多発テロの際、当時のブッシュ大統領は〈テロとの戦い〉宣言によって、戦争の定義を書きかえた。21世紀の戦争が、かつての国家間の争いから、見えない敵を相手にする果てなき戦闘に上書きされたあの瞬間は、今も忘れられない。マスコミはテロの脅威を報道するのに忙しく、この新しい定義の中に「国境」と「終戦」の明確な線引きがないことを、疑問視する声はなかった。今後政府は世界中に一人でもテロリストが残っていれば、自国を「緊急事態下」においておけるようになる。国家の権限が、あらゆる意味で必要以上に拡大した事に人々が気づいたのは、ずっと後になってからだった。
やがて「アルカイダ」よりも「ISIL」というテロリスト集団が大きく報道されるようになり、アメリカ率いる四十ヶ国以上の有志連合が作られ、空爆はイラクからシリアへと拡大した。二〇一四年、国連が報告したこれら「対ISIL」攻撃によるイラク市民死亡数は、わずか9か月で9347人に達したと言う。その一方でアメリカの空爆作戦は憎しみのらせんを回し、ISILに参加する新兵の数を爆発的に増やしている。
国境なき記者団は、イラク戦争以降急増するジャーナリストの誘拐・殺害数が2014年12月時点で前年の37%増加した事に警鐘を鳴らした。だが、国防総省次官補が発した、従軍記者以外のジャーナリストについては責任を持たないという暴言も、同地域で頻発するジャーナリスト殺害に関する捜査が放置されている事も、もう忘れ去られている。
戦闘が長引くほどに増えるのは、犠牲者の数だけではない。ふくれあがる軍事費はまた、攻撃する側の国民の肩にも、重い負担となってのしかかるだろう。 国内の実体経済と彼らの暮らしを回復させるための予算は、ますます後回しになってゆく。
だが多くの犠牲が払われ続ける一方で、潤う人々もいる。
二〇一四年九月。フォーチューン誌に掲載された「ISIL戦争の勝者はもう存在する。防衛産業だ」の記事によると、ISILとをターゲットにした作戦によって確実に利益をあげる二つの業界は、有人・無人航空機の製造および整備業者、そして弾薬とミサイルの製造企業だという。アメリカ政府が2014年6月からISIL撲滅作戦に費やした軍事費6億ドル(約600億円)は、今後この作戦が長引けば、すぐに倍になるだろう。記事の中にはレイセオン社、ジェネラル・ダイナミクス社、ロッキード・マーティン社といった軍事関連企業の名前が並べられ、バンクオブアメリカのアナリストはインタビューの最後にこう言った。「あちこちで拡大する地域紛争も、投資家にとっては決して悪くない」
天文学的な財政赤字を抱える米国政府は、イラク戦争の大義名分だった大量破壊兵器の存在の裏付けがないことが明らかになった後、国内からあがる軍事予算削減要求を無視できなくなっていた。だが、「ISIL」の登場以来、再び情勢は逆行し始めている。ISIL撲滅を掲げるアメリカは、国連加盟国193か国中132か国に駐留し、1000カ所の軍事基地を持つ軍事大国だ。その政府への軍需産業による影響力の大きさと、後藤健二氏の願いだったと言う「戦争のない世界」。残された私達日本人は、ふたつのうちどちらの道を選ぶのか。それが後藤さんの死に意味をつけてゆく。